名前を書かなくなった頃

小学生の頃、習ってない漢字を使ってはいけないというルールがあった。

それは名前にも当てはめられていた。


私の名前は「七菜」で「ナナ」と読む。

名前の由来は平成七年に生まれたからという超安直なものだか、幼い頃からこの名前と漢字は我ながら中々良いと思っていた。

(因みに妹は二千年生まれなので千夏なのだ。)

「七菜」の菜は小学校四年生で習う漢字で、それまで「七な」と表記させられていた。

めちゃめちゃ字面が格好悪い。しかもそのまま読めば「ナナナ」である。


自分の名前の漢字すら書くことを許されないこのルールに憤慨し、それから提出物からテストまであらゆる名前を書いて提出するものに名前を書かなくなった。

当然テストは0点だし提出物は名前がない為どこかへ行ってしまう。

それでも「七な」の気持ち悪さの執着から逃れられず結局全て漢字で書けるようになるまで名前は空白で提出していた。


その頃、いやもっと前からだったのかも知れない。

他人から見ると一見しょうもない事に拘りを持ち、自分で自分の首を絞めて生き辛くしていたのは。


話は変わるが小学校五年生の時に理科の実験で結晶を作った。

幼少期からゲームセンターで獲れる色とりどりの石などの所謂「ヒカリモノ」が好きだった私はミョウバンの結晶に一瞬で心を奪われた。

だが、ミョウバンの結晶は数少なかったのと恐らく管理的な問題で持ち帰る事が出来なかった。

教師に交渉すれば良かったのだが当時学校で言葉を発する機会は月一あれば良いほど大人しく、ましてや教師に話しかけるなんてと思っていた。

そこで私は放課後の理科室に忍び込み、盗みを働く事にしたのだ。

その日は運良く理科室の当番の教師が居なかったので簡単に忍び込む事が出来、昼間授業で目を付けておいた場所にそのまま置いてあった結晶を盗んだ。

あの時の窓から夕日が差し込み、その光を浴びて掌で輝くミョウバンの結晶の姿を私は決して忘れないと思う。


結局その結晶は三年前家が立ち退きになり引っ越しするまで大事にセーラームーンの小物ケースに入れていたが、親にゴミと間違えられて捨てられた。

少し悲しさはあったが私は10年越しにやっとミョウバンの結晶への「執着」を捨てる事が出来た気がした。


先日退院し私には「PDD(広汎性発達障害)」という病名が付いた。同時に障害者手帳も交付された。

今迄悪魔のように取り憑いてきた何かへの執着は病気から来るものだと分かった事への安堵と、これから障害者として社会で生きていかなければいかない不安が同時に襲う。

しかし苦しんできたものの私の拘りは生きる糧にもなってきた。

心を道に例えると地面がぬかるんでいたり、乾きすぎてボコボコだったり、花が咲き乱れていたり、歩き難いが歩き甲斐がある。そんな状況だ。

もしこの道がコンクリートで塗り固められた滑らかな平坦な道になった時、私は歩きやすいと思うのか。それともつまらない道だと感じるのか、それは自分自身でもまだ分からない。